お茶の水女子大学附属小学校公開での学び

2月16日(木)と17日(金)の2日間。
道外研修として御茶ノ水女子大学附属小学校の実践発表会に参加させていただいた。
参加する中で思考が揺さぶられる場面が多々あり。
備忘のために思いつくままにまとめておこうと思う。



1、「てつがく」という授業とは?

どのクラスもサークルになり対話をしている。
それが子どもたちにとっての日常。
低学年は「みがく」
中学年、高学年は「てつがく」の授業がある。
「てつがく」というと固いイメージがあるがまったくそんなことはない。
対話を通してみんなで考え続けようとする。
それが「てつがく」の時間。

「道徳」と「てつがく」 これらの違いは何か?
そんなことを考える。
「道徳」は価値があるものを伝える。
一方「てつがく」は価値を生み出す、再確認する という感じだろうか。

「価値がある」から「目を向ける」 のではない。
「目を向ける」から「価値が生まれる」

てつがくの時間はみんなが当たり前のように通り過ぎるものに目を向け、その意味や価値をみんなで再確認していく。

教師は「知者」としてではなく「愛知者」として子どもたちを包み込む。
答えを共に探るというスタンスで話し合いを進める。
このスタンスをもてるか否かが話し合いの深まりに大きく関わってくる。

指導者という立ち位置だと子どもたちは萎縮する。
「正解」というものへ固執してしまう。
教師が一参加者としてどれだけ耳を傾け、面白がれるか?
指導という要素を排除して、子どもたちの思考に寄り添えるか?
それが「てつがく」の深まりを左右する。

評価する者 ー 評価される者
教える者 ー 教えられる者
場をつくる者 ー 場に参加する者
答えを知る者 ー 答えを知らない者

この構図に囚われていると見えなくなる。
教師が教師にしかできないものを手放し、力を抜いて場に臨む。
それが果たしてできるのか?

参観した授業における子どもたちの話し合いはまさに「地上戦」だ。
一進一退の攻防が続く。
こんなに泥まみれの話し合いをせずとも
教師の 「ここはこうするぞ」 という空爆で全てはスムーズに進む。
でもそれではだめなんだろう。

教師も地上戦に参加し、共に泥だらけにながら何かを形づくっていく。
そんな授業。
眺めていてその覚悟と信念が自分には欠けていたのではないか?と考える。
「知者」と立場にあぐらをかき、 上空で高みの見物をしていたのではないか?と。

「押し付ける・任せる・預ける・委ねる」
今回の公開でサークル対話に臨む教師たちを眺めることでこれらの違いが浮かび上がってきた。

時間割、教科書、テスト… これらを削ぎ落とした先にあるものは?
それが見えてきた2日間。
子どもたちを成長させていくために必要なものとは?
結局答えはシンプル。
問い続けること。
対話し続けることなんだろう。



2、「てつがく×国語」のカリキュラムマネジメント

今回の公開で見事だったのは、本田祐吾先生(2年生)の「てつがく×国語」の授業。
かわいい2年生たち。
伸び伸びとした雰囲気。
ものおじせず、お互いが言いたいことを伝え合う。
しかしその雰囲気を作り出しているのは間違いなく担任の本田先生の「在り方」だろう。

その在り方もさることながら、その授業展開に舌を巻く。
サークル対話をサークル対話だけで終わらせないという覚悟が見える。
サークルでの対話が後々の授業展開の布石となっているのだ。
(実践については今後クラスで取り組んでいく中で紹介予定。詳細はひみつ。)

子どもたちが「自分ごととして授業に取り組める工夫」がされている。
あたかもそれが子どもたちの力のように授業は進んでいく。
しかし授業を根底から支えているのは本田先生の授業構成力であるはずだ。


本田先生の実践は今自分たちが行っている「学びのカリキュラムマネジメント」の実践をより強固にするだろう。
そんな確信を得る。
我々の実践は学びをひたすら言語化していく。
しかしそれは言語の獲得が途上にある低学年ではなかなか難しい。
その壁をいかにこえるかが課題だった。

文字が書けないと実践が成り立たないという考え自体が甘かった。
違う。
書けないからこそ「育てる」のだ。
書けないからこそ「つなげる」のだ。
書けないからこそ「部分」に目を向けられるのだ。
書けないからこそ「丁寧に向き合える」のだ。

低学年。
中学校教師から小学校教師になった自分にはどうしてもイメージできなかった。
でも今回の公開ではっきりイメージできた。 
低学年でも高学年と同じ理念を貫くことができるということを。
すばらしい授業を見せてくださった本田先生に感謝。
これを来年度面白い実践が展開できそうだ。


3、Sさんのつぶやき

「1人で学びをつくっていく力」は1人でつくっていくことはできない。
昼食の時Sさんがつぶやいた言葉。
この言葉の意味はめちゃくちゃ深い。

「1人で学びをつくっていく力」はいかにしてつくりあげられていくか?
これを体得していく陰には必ず誰かの助けがある。


「1人でできる」ためには「1人」ではだめだ。
大いなる矛盾をはらんだ言葉だなぁ。

自立した学び手を育てていくためにもう少し咀嚼したい言葉だ。



4、岸見一郎さんの講演より

「嫌われる勇気」の著者、岸見一郎さんの講演を聞くことで、いろいろなことをもう一度再度見直していかなければと考えさせられる。

子どもたちが「自分自身に価値がある」と感じられる場を作り出せているだろうか?
子どもたちが「誰かに貢献できている」と感じられる場を生み出せているだろうか?
そこを再度問い直していきたい。

あの子は「いつも」ひどい。
あの子は「必ず」悪いことをする。
あの子が「絶対」関わっている。
あの子たちは「みんな」ひどい。
「いつも・必ず・絶対・みんな」という言葉が真実を捻じ曲げてしまう。

人からの評価≠自分の価値
ということを伝える教育は可能なのか?
「通知票」という評価を下す教師がその価値を矛盾なく語ることは可能なのか?

教師がもつ「評価」というものについても再度考え直す必要がありそうだ。

1人でいると孤独感。
2人でいると劣等感。
3人でいると疎外感。
常に滲み出る「対人関係の悩み」をいかに乗り越えていくのか?
これは自分の中での大きな課題だ。
共同体感覚を研ぎ澄ますためになにが大切か?
アドラーの教えは様々な示唆をくれる。
これをいかに教室の学びに落とし込むか。
大きな宿題をもらった。


5、新たなプロジェクトへ
さてさて、来年度自分がやりたいことが浮かび上ってきた。
備忘のためにメモ。

(1)サークル対話のカリキュラムマネジメント
今までサークル対話は行なってきた。
しかし、それがサークル対話のみに終始していたように思える。
これらをこどもたちの成長につなげることはできないか?
もう少し考えていこう。

来年度は本田先生のようにサークル対話を国語の学習につなげていく。
全体にかたよりがちだった実践をより「部分」へと高めていくことは可能か?
文章ではなく、文に、文節に、単語にこだわる子どもたちを学びの可視化を通してつくりあげていく。


(2)楽しさと共にある教師へ
子どもの学びと成長の間にはタイムラグがある。
そのタイムラグを埋める重要な要素「楽しさ」。
これを生み出すためにはいかにあるべきか?
教師としてのスタンスを再度問い直したい。

どうしても、力技になりがちな自分自身をいかに変革するか?
「楽しさ」と共にある学びをいかにつくるか?
「硬さ」から「しなやかさ」へ。




(3)てつがくプロジェクト
公開終了後、3人でおしゃべり。
その中で新たなプロジェクト始動する。

「てつがく」というものを中心にして、教室の学びを再度問い直す。
御茶ノ水女子大学付属小学校の取り組みを自分たちなりに咀嚼するとどうなるか?
我々の形としてまとめていこうと考える。

子どもたちと何を考えたいか?
たくさんのものが頭に思い浮かぶ。

幸せとは何か?
嫌いって何?
美しいとは何か?
人を好きになるとは?
生きるってどういうことか?
豊かさとは何か?
孤独と孤高の違いとは?
誇りとプライドの違いとは?
嫉妬とは?
信じるとは?
かしこさとは?

共に「てつがく」する場を自分の教室にもつくっていく。
その成果をまとめていきたい。



6、終わりに
思考を揺さぶられる2日間だった。
教育の根底にあるものは何か?
それを見つめ直すことができた。
教育の世界に「希望」を見た。
自分の歩んできた道を共に歩む人がいることに勇気をもらった。
まだまだこれからなんだ。
そう強く思えた。

すばらしい学びをありがとうございました。
もう少しもがいてみよう。
そんな勇気をいただきました。

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