認めたくない弱み

「子どもが好き」ではなく「子どもを成長させるのが好き」
そんな教師でありたい。
ずっとそう考えてきた。
しかし、子どもたちを成長させるという過程の中で自分はどうしても「子どもらしさ」をも削ぎ落としてしまうのだ。

ある人が休み時間の私の教室に一歩入ってもらした感想。
「他のクラスと空気が違うね」
これは、私の強みでもあり、私の弱点でもある。
休み時間とは思えないほどの声のトーン。
みんながしっとりと何かに集中している。

しかしそのかわり、「ダイナミックに何かに熱狂する」という場面は少ない。
「集中」は存在するが「熱狂」はないのだ。
子どもらしさとはこの両者の中に存在する。
なのに、自分は熱狂の中の子どもらしさを押し込めてしまう。

今までは「それでいいのだ」と考えて歩んできた。
しかし、今の子どもたちに出会って、それだけでは足りないことに気づき始める。
「静」の中にある子どもらしさ。
「動」の中にある子どもらしさ。
どちらも教室の中に育むことはできないものか?


水は流れが止まると腐り始める。
それと同じこと。
「静」と「動」の往復がなければ、教室は淀み始めるのだ。

「静」だけの状況。
「しっとり」から「じっとり」になっていく。

「動」だけの状況。
「熱狂」から「騒乱」になっていく。

子どもから「熱狂」を取り除けば「大人」になるわけじゃない。
「大人」でありながら、「集中」と「熱狂」が共存する人間。
そんな人を育てていきたいのに。
なのに、どうしても「熱狂」そぎ落としてしまう自分がいる。
今まで認めたくなかったことを痛感した1年間だった。

自分が認めなくなかった考え方を、認めなくてはいけない状況になっている。
今までの感覚、現在の状況、認めずにきたことによる子どもたちの成長度。
様々なものを、様々な尺度で照らし合わせていった結果、そういう結論に至り始めている。

自分が認められなかったものを認められるようになること。
それを成長という。

昔何かで目にした言葉。
しかし、それを認めるのがとてつもなく怖い。
自分が積み上げてきた信念が崩れていくような感覚。

これを「成長」といっていいのだろうか?
そう迷う自分がいる。
しかし「共感」というコンパスを頼りにして進んでいくと、この壁は乗り越えなければいけないようだ。

「許す」ことは「ゆるむ」こと。
何かを許すということは自分自身を「ゆるめる」こと。
そんな自分もありなんじゃないかな?
そんな風に自分自身を許して、緩めて新たな境地に立ってみる。

残り14日。
この日数を大切していきたいと思う。
今までの自分を踏み越える。
そんな試行錯誤を続けられる大切な期間。

この記事へのコメント

人気記事

最近の記事

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村