「語り」自体を削ぎ落としていくということ

語り続けて気づいたこと。
語りには段階がある。

教師自身が「できない」から「語らない」       
       ↓
教師自身が「できない」けれど「語る」        
       ↓
教師自身が「できる」から「語る」        
       ↓
教師自身が「できる」けれど「語らない」


これが 「教師の語り」が力を帯びながら削ぎ落とされていく過程。

「できる」けれども「語らない」
この境地に立った時にその人から自身から立ち上るもの。
それが「オーラ」「気迫」「魂」「在り方」と呼ばれるもの。

我々教師はどうしても 「どう語るか?」ということに焦点をあててしまいがちだ。
しかし、一番大切なのは 「教師自身ができているか?」
「できるために挑戦し続けているか?」 ということなのだろう。

人の心を揺り動かすのは
「できる」「できない」
ではない
「やるか」「やらない」
かなのだろう。

そんな風に考えて、常に「できる自分」「やろうとしている自分」であろうと考えてきた。
しかし、今年度子どもたちと共に過ごしてきて観察してきて考える。
「できる」「できない」
「やる」「やらない」
の一歩先があることを。

それは
「楽しめる」「楽しめない」
ということ。

どんなにできていても
どんなに挑戦しようとしていても。
そこに教師自身が「楽しんでいる姿」がなければ魅力はないのだ。

そう考えていくと、先ほどの過程に一つ先が加わるのではないだろうか?

教師自身が「できない」から「語らない」       
       ↓
教師自身が「できない」けれど「語る」        
       ↓
教師自身が「できる」から「語る」        
       ↓
教師自身が「できる」けれど「語らない」
       ↓
教師自身が「楽しむ」

というものに。
「楽しむ」姿の先に語りがあってもなくてもどうでもいい状況。

「語る」「語らない」
という概念そのものが削ぎ落とされる。


明るさがある所に人は惹かれる。
笑顔がある所に成長は生まれる。

そう考えていくと「教師のもつ力の可能性」が見えてくる。
「笑顔」と「対話」
これは来年度のテーマになりそうだ。

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