この「深い学び」とは「Deep Learning」から来ている。
そう考えると、様々なことがつながり始めている。
そうだよ。 そうなんだよな。
膨大な試行錯誤を繰り返した先にしか「深い学び」は成立しない。
これは機械に限らず人間だって同じこと。
「膨大な試行錯誤」の先に様々なことを見出し、できるようになっていく。
そこで重要になってくるのがこの「膨大な試行錯誤」をできる環境が今の公教育にどこまであるか? ということだ。
今まで、その膨大な試行錯誤を促す媒体として 『学び合い』のような協同学習を取り入れてきた。
しかし、数年前それはつまづいた。
なぜなら、『学び合い』で熱心に話し合っていても、対話が上滑りして全く深まっていないことがあるということがわかったからだ。
その上滑りしている状況に気づくことができない。
教師も、学んでいる子どもたち自身も。
そこで、考え出したのが「書く」ということだ。
何を学んだのか?何がわからないのか?
その思考の過程をすべて書き出していく。
それによって、「対話の上滑り」を防ごうとしたわけだ。
ひとくちに「書く」といっても、そこには教えるべきたくさんのことがある。
説明する文なのか、紹介する文なのか、要約してまとめる文なのか、思考を整理する文なのか…
これらを追い求めていくうちに、かなりの時間がたってしまった。
やり尽くしたような感覚の中、最後に残ったもの。
それは 「ああ。これはまだ深い学びとは言えないな」 ということだ。
とは言ってもその正体がなんなのか、何が足りないのかはわからなかった。
でも、ようやくそれらが見えてきた。
「膨大な試行錯誤」
自分の授業には「膨大な対話」と「膨大な文章化」はあるのだ。
しかし、そこに圧倒的に足りないものがある。
それは 「膨大な読み浸る経験」だ。
「話す」「書く」「読む」
これらは三位一体なのだ。
それを「話す」ことと「書く」ことのみに特化しても、それらは歪になる。
このことに気づいてから、国語の時間が180度変わった。
「話す」ことは『学び合い』の授業であれば、どの授業でも展開できる。
「書く」ということも同じだ。
国語で学んだことを生かして、どの教科でも思考の言語化はできるのだ。
どの授業でも、どの単元でも継続して積み重ねていける。
だからこそ「学びのカリキュラムマネジメント」とう考え方は成立させられた。
しかし、ここに足りなかった視点がある。
それは、「国語という教科でしか養えないこと」という視点である。
それが「読む」ということなのだ。
「話す」ことも「書く」こともどの教科でも展開できる。
しかし、「圧倒的に読み浸る」という経験は他の教科ではできないのだ。
「読む」 というと、日本の教育ではどうしても「精読」というように考えがちだ。
確かに「精読」も大切だ。
しかし「精読」だけでは「圧倒的に読み浸る」とは言えない。
「精読」か「多読」かの二項対立ではない。
どちらも大切なことなのだ。
重要なのは「精読」で学んだ経験を「多読」の中で自分の読みに生かしていくことなのだ。
逆もありうる。
「多読」をしていくうちに「精読」する重要性が生まれてくることだってある。
「読むとはどういうことか?」
そのものさしを教科書で学び、実際にそれを自分で使う経験を積み重ねていく。
教科書→自分で使う→教科書→自分で…
という圧倒的な繰り返しが、膨大な試行錯誤につながっていく。
そんな風に考えていくと、「国語の授業」のあり方が変わる。
実際自分の授業は変わった。
教室で学んだことが、次は図書室で。
国語の授業の大半が「図書室」になった。
これは、気づくと当たり前のことなのだが、実際固定観念がその気づきを邪魔をする。
その証拠に自分のクラスがいつ図書室にいっても、図書室は使い放題なのだ。
国語は教室で。
休み時間は図書室へ。
そんな見えない「常識」が巣食っているのだ。
多くの教師は「国語」の中で「読書」をさせるべきだと考えている。
自分もそうだった。
しかし、それは全く逆なのだ。
「読書」をする中で「国語」を学ぶ重要性が浮かび上がってくる。
それが「読む」っていうことなのだ。
そのためには、毎日必ず「読み浸る時間」を設定していくことが大切だ。
教科書の内容とカリキュラムをいかに折り合いをつけていくか。
そこに踏み込んでいるところ。
「話す」「書く」「読む」を三位一体にする。 それらが融合した学びを膨大に積み重ねていく。
そこに「深い学び」は成立する。
そんな仮定にたどり着いた。あとはそこにどう斬り込むか。
この仮定が的外れではないことような気がするのは、子どもたちの反応だ。
「国語の授業が待ち遠しくなった」
と語る子がたくさん生まれた。
「家でも本をたくさん読むようになった」
と語る子も。
授業を展開してたった1週間で。
今まで「書くことが嫌い」な子は自分のクラスでは苦しんでいたかもしれない。
それはこれからも変わらないだろう。
しかし「読むこと」というクッションが何か自分の授業を変えてくれそうな気がする。
そんな予感がする。
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