学び合いにおいて「教師の語り」と「教師の観測」を手放すためには

「思う」から「感じる」へ。
その階段を上がっていくためには可視化が必要不可欠だと思うんだ。
見えないものを感じられるようにする。
それがこれから自分が追い求めていきたいテーマなんだ。

「思う」から「感じる」へ
「感じる」から「感じ合う」へ
「感じ合う」から「分かち合う」へ
「分かち合う」から「感謝し合う」へ


「こうなりたいな」は思うこと。
「自分はこうなりつつあるな」は感じること。
「お互いにこうなってきているな」は感じ合うこと。
「君にぼくができることはなんだろう?」は分かち合うこと。
「君がいてくれてうれしいよ」は感謝し合うこと。


最近「可視化」が自分の中で、かなり追求したいテーマになっているんだ。
「可視化なんてねぇ…」 なんていう人もいるけど、その気持ちもよくわかる。
自分もそう感じていた時があったから。
でもね、これって「手放す」ことにつながっていると思うのよ。

子どもたちが主体の学習(『学び合い』や「学び合い」、協同学習など)を構築するために、教師がしなければならないことって何か?
それって「手放すこと」だと思うんだよね。
具体的に言えば「教師が全部教えること」を手放す。
「画一的な学び方」を手放すなどね。

『学び合い』なんかだと、教師用の指導書とかも子どもたちに見せちゃうし、学習指導要領だって子どもたちに読ませちゃうでしょ?
あれも、教師が握りしめているものを「手放す」ことの1つ。

こういうのは結構簡単に手放せる。
やろうとすれば、すぐにでも。
でもね、この数年間研究してきて、どうしても手放せなかったものがあったんだ。

それはね。
「語り」と「観測」なんだ。

どういうことかというとね。
まずは「語り」から。

7年ぐらい前の話。
1回「教師の語り」を手放してみたのさ。
学習はバラバラになった。
「学び合いなんていやです」 なんて言い出す子も。
そんな手痛い経験を通して学んだこと。
「教師の語り」は削ぎ落とせないってこと。

でもね、最近「教師の語りをそぎ落とすこと」は可能じゃないかっていう境地にやっと立てた。
その境地に立てたのは「てつがく」の授業に出会えたおかげ。
「てつがく」の授業では徹底的に形のないものを形にしていく。
その過程で心の中の声が可視化されるのさ。
それは自問自答する語りとなる。

自己に問い、自己と考え、自己に答える。
これができる子は強い。
この状態が「自分で語りを生み出せる状態」なんだ。
これがまさに「教師の語りがそぎ落とされた状態」だ。

だから、来年度は「てつがく」を学びの中心にすえていきたいと思っている。
「てつがく」って自分の中で語りを生み出すことだから。
ここまで高められたらようやく胸をはって「教師の語りを手放せたよ」って言えるんじゃないかなぁ。と。


もう1つ手放せなかったもの。
それは「教師による観測」ね。

学び合いを行うにあたって、どうしてもこれは削ぎ落とせない。
学び合いにおいて教師は教えないかわりに教室の状態をじっとみる。
そこで起こっていることを自分の頭で読み解き、それを授業の最後に子どもたちにフィードバックする。

これは教師にしかできない。
だって、子どもたちは学習課題という「部分」におりているから。
木をじっと見ている子に森は見えない。
授業中に森を見ることができるのは教師だけなんだ。

「観測」は教師の専売特許。
自分もそう考えて疑わなかった。
でも、そうじゃないことに気づかせてくれたのが「教室の可視化」なんだ。
教室の可視化をすることで、「観測」が教師の専売特許ではなくなる。
これこそが「観測」を手放すってことなんじゃないかと。

これができると、教師と子どもが同じものを観測して、感覚を共有できる。
教師の主観のみの一方的なフィードバックではなく、子どもたちを含めた双方向の観測による相互フィードバックが可能になるんだよなぁと。

「教師の観測」と「それによるフィードバック」がなくても、自分たちで状況を読み解いて学びを修正していくことができたらすごいよなぁと。
もしも、それができたら「教師の観測」をも手放すことは可能っていえるかもしれない。


誤解されないようにいうけど、これは
「教師は語らなくていい」
とか
「教師は観測しなくていい」
ということを言いたいわけじゃない。

「語り」と「観測」が薄くなっていく過程を知りたい。
ただそれだけ。

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