若者の最大の武器は「語り」なのではないか?

語りについてあれこれ考えている。

福島さんと出会って感じたこと。それは
語りには2種類あるのかなってこと。
1つ目は
人のもつ「強さ」を力に変える語り

もう1つは
人のもつ「弱さ」を力に変える語り
自分の語りの根底には後者が横たわっている。
そこに自覚的にならないといけないとなぁと。

語りとは「考える」ものではなく、「溢れ出る」ものだ。
放つ(話す)のではなく、かたちづくる(語る)ことが大切。
いくら強く放っても、かたちとしてイメージできなければ語りとは言えない。

語りは、経験を積んだ教師にしかできないものだ。
そんなことを言う人がいる。
でも、そうだろうか?

語りとは、教師であれば誰もが初めからもっている大きな武器なのではないか?
板書計画、発問、指導案の書き方などの武器は一朝一夕には手に入らない。
でも
「子どもたちに語りたい言葉」
は教師になる前から自然と磨かれ続けてきた武器だろう。
磨き続けてきたからこそ教師になったのだから。

しかし、その武器は慌ただしく過ぎていく一斉指導の中ではただの棒切れに変わるんだ。
教科書をこなしていく毎日の中では、教師の思いを語る場面なんてこれっぽちもないんだもの。
そして、若い人は最大の武器(語りたい言葉)を手放してしまうんだ。
それを再び手に取るのは、経験を積んで余裕が出てきたころ。
だから、経験が積んだ人にしか語れないなんて言葉が出てくるんだろうな。

学び合いを初任者でも始めやすいのは(持続できるかは別として)こういうことなんだ。
経験を積まなきゃ手に入らない武器ではなくて、今まで自分が磨き続けてきた「語りたい言葉」を武器にできるから。

でも、その語りは魔法じゃない。
磨いていかないとすぐ錆びる。

学び合いの授業が崩れる時はどういう時か?
それは「語り」がうすっぺらいものと子どもが見抜いた時。
それは「語り」の願いを押し付けと感じた時。
それは「語り」の意味が伝わっていない時。
それは「語り」の意味が伝わっていないのに理不尽に責められた時。

「一人も見捨てるな」と責任を子どもたちに押し付け、その言葉を大義名分として子どもたちを裁くと、教室は崩れるんだ。

恐れ多くて語れない。
そんな人もいる。
でも、そうじゃないのさ。
伸ばす力があるから語るのではない。
語るから、伸ばすためにどうするかを本気で考え始める。
語ることは出発点。

語りとは子どもたちとの契約なんだ。
自分はここまで伸ばしたい。
自分がここまで伸ばす。
その教師の想いを子どもたちが受け入れるということ。
それが契約を結ぶこと。

しかし、教師は契約違反を犯しがちになる。
契約違反とは?
それは
「教師が必ずここまで伸ばす!」といっていたのに、その伸びを子どもたちに感じさせられない時。
そして
契約を交わしたのにその責任はあなたたち(子どもたち)にあると教師に言われたとき。

成立から持続へ。
そのためには「語る内容」を「自分」と一致させていかないといけない。
それがとてつもなく苦しいことなんだ。
それが学び合い持続の鍵を握るんだろうな。

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